路地裏

あらゆるどうでもいいことを書きます。

夢が死んだわけじゃない

 酒を飲んで、ベッドに腰かけて、スマブラの休憩に少し考える。「子供の頃の夢は何だったっけ?」

 記憶力はとてもいい。物心ではないんだけど、2010年頃からこの瞬間までにあった様々な出来事をなぜだか膨大な量覚えていて、きっと誰も覚えていない面白くもなんともない自分の言動を思い返したりする。

 でも子供の頃の夢は、よくわからない。自分が一ケタの年齢だったころ、夢ってちゃんと持ってたんだろうか。タイムマシンが開発されたら、聞きにいってみたい。あのころはなんだか、一日を無感動にこなしてた気がする。

 

 でもちょうど日本が南アフリカでベスト16に行って、駒野が叩かれたころからの記憶はかなりある。もちろんその頃の夢も覚えてる。小学校5年生から中学1年生までは、サッカー選手になりたかった。自分はプジョルのあとを継いで、バルサの5番を背負うんだと息巻いていた。

 サッカー部の上級生が苦手で、嫌いで、簡単にやめてしまった。同級生はいいやつだったと今では思うけど、上級生は今でも苦手だ。サッカーが好きかどうかもわからなくなった。中2の6月からはバスケ部に入って、問題なく充実した最高のバスケ部生活を過ごして、引退した。それは自分を作る必要な時間であったし、「最高の思い出」カテゴリに保存してある。バスケ部は見事に、人生の一部となった。

 

 でもバスケ選手という夢は持たなかった。バスケ雑誌も読まなかったし、知ってるバスケ選手もコービーとか、ジョーダンとか、そんな伝説クラスだけだ。

 ところが、あんなに嫌気がさして辞めたサッカーは、今でも大好きだ。Jリーグの贔屓のチームを応援し、サッカー雑誌を熟読し、日本代表に苦言を呈す。まだ代表にも入ってない海外の自分より年下の選手をワクワクしながら追いかける。休日に、突然外に出てボールを蹴り出す。俺は紛れもなくサッカーが好きだった。

 

 サッカー選手という夢を持った自分を、バカだなと思う。俺はあまり上手じゃなかった。いまだに左足ではまともに蹴れないのに。

 でも、サッカー選手という夢があったから、サッカーをいつの間にか好きになれたんじゃないか?と思った。贔屓のチームのゴールに、勝利に思わずガッツポーズなんて、夢もないのに出来ただろうか。サッカー雑誌をあさったり、外国人の名前どころかプレースタイルまで覚えるなんて、好きじゃないのに出来るだろうか。

 

 サッカー選手になりたいという夢は、もう持っていない。あるのは「なれなかったどころかスタートラインにもたどり着けなかった」という現実だけ。

 でも、全部が無駄だったとは言えない。好きなものが出来た。

 高校の授業で、夢を聞かれた。マイクを持たされ、言葉が自然と出てきた。

「サッカー雑誌の編集者になって、バロンドールを取った選手にインタビューしたい」

 

 それは紛れもなく夢だった。自分でも、言葉にした瞬間にやっとそれが夢だと気づいた。

 だから、あの夢は死んだわけじゃない、と思った。それは形を変えて、人生の一部になって、新たな夢になって、いつまででもここにいるんだと思った。

 だから、あのころの無謀な自分を褒めてやりたい。お前はだいぶバカだが、その後の俺の支えとなったわけだ。

 

 今はちょっと夢と違うところにいる。また違うところに行くかもしれない。でも、夢はまた勝手についてきてくれるんじゃないかと思う。

万有引力

 タレントのエッセイが好きで、そういうのをあさって、贔屓の書店で買っては、こんなふうに触発されて何かを書いてしまう。小学生の時はノートに書きなぐった。そのノートを学校の理科室に忘れて、教室まで持ってこられたことがある。中学生になると、学校に持っていくことはなくなった。

 高校に入って、バイトをした。不思議なほど仕事の覚えが早くて、給料も貯まった。貯まったお金でPCを注文した。ノートパソコン、今ではこんなことにしか使っていない。でも役割がはっきりしてて、自分は100点の存在価値をこいつに与えている。これを開くと何かを書く。スイッチになってて好きだ。

 

 エッセイを読んでいつも思うのは、「こんなにも書けるのか」って事だ。SNSやブログで綴られている言葉を眺めても、普通に見えるし、「なんだこんなもん俺にも書けるよ」ってな風に斜に構えてしまう。それが集まっただけにも見えるのに、エッセイ本を読み終えると、「なぜこんなにも言葉が詰まってるのだろう」と思うのだ。

 自分には文才があると信じている。物語もたくさん考えて、書いて、消して、思いついてきた。読書感想文、授業で書く作文、どれもこれもとっても褒められた。先生のベタで構文のようなお褒めの言葉から、クラスメイトの不思議なワードセンスの高評価まで、身近にもらえる称賛はすべて甘んじてもらってきた。

 今でも信じて、それだけにすがって生きている。文才がある。自己を保つための絶対評価である。

 

 芸能人は、テレビで喋って、SNSでつぶやいて、それでもまだ書くことがあるのだろうか。経験や体験を切って貼って、手元になんにも残ってなかったりしないのだろうか。もしかして芸能人って、相当上の世界に住んでるんじゃないだろうか。朝起きてすぐ感動的なフレーズに出会って、お仕事で素敵な体験をして、移動時間で何かを閃いて、帰ると最高の友達が待ってたりするんだろうか。そうでもしないと、発信する量に見合った一日になってないんじゃないだろうか。

 あるいは芸能人の言葉には、なんでもない物がたくさんあるのかもしれない。「空がきれい」って言うだけで、俺達はそれをいろんな角度から眺めて、「この角度からだと深い発言」だと受け取ってるのかもしれない。

 

 そんな風な受け取り方って、なんだかその人に振り回されてるみたいだ。べつに批判的な意味合いじゃなくて、その瞬間、その人は世界の真ん中にいるんじゃないかって。人ってそれぞれに世界を持ってて、その中心はたぶんおそらく自分であるはずなんだけど、たまに、あれ?ってなる。いつの間にか自分が衛星みたいに回ってて、視界がぐるぐるして、よく見たら真ん中にその人がいる、みたいな。うまく言えないけど、そんな感じ。

 

 万有引力、とってもいい。誰でも自分が中心で、たまにそれが大きい人がいて、俺達みたいに引力が弱い人は、斜に構えながらも引っ張られてしまう。そういうすごく強い引力に、魅力って名前が付く。善悪もプラスもマイナスも全部ひっくるめたパワー。

 

 行きつけの書店に行って、タレント本の棚を見て、面白そうなタイトルを見つけてしまって、パラパラとめくりながら、また思う。ああ、万有引力