路地裏

あらゆるどうでもいいことを書きます。

万有引力

 タレントのエッセイが好きで、そういうのをあさって、贔屓の書店で買っては、こんなふうに触発されて何かを書いてしまう。小学生の時はノートに書きなぐった。そのノートを学校の理科室に忘れて、教室まで持ってこられたことがある。中学生になると、学校に持っていくことはなくなった。

 高校に入って、バイトをした。不思議なほど仕事の覚えが早くて、給料も貯まった。貯まったお金でPCを注文した。ノートパソコン、今ではこんなことにしか使っていない。でも役割がはっきりしてて、自分は100点の存在価値をこいつに与えている。これを開くと何かを書く。スイッチになってて好きだ。

 

 エッセイを読んでいつも思うのは、「こんなにも書けるのか」って事だ。SNSやブログで綴られている言葉を眺めても、普通に見えるし、「なんだこんなもん俺にも書けるよ」ってな風に斜に構えてしまう。それが集まっただけにも見えるのに、エッセイ本を読み終えると、「なぜこんなにも言葉が詰まってるのだろう」と思うのだ。

 自分には文才があると信じている。物語もたくさん考えて、書いて、消して、思いついてきた。読書感想文、授業で書く作文、どれもこれもとっても褒められた。先生のベタで構文のようなお褒めの言葉から、クラスメイトの不思議なワードセンスの高評価まで、身近にもらえる称賛はすべて甘んじてもらってきた。

 今でも信じて、それだけにすがって生きている。文才がある。自己を保つための絶対評価である。

 

 芸能人は、テレビで喋って、SNSでつぶやいて、それでもまだ書くことがあるのだろうか。経験や体験を切って貼って、手元になんにも残ってなかったりしないのだろうか。もしかして芸能人って、相当上の世界に住んでるんじゃないだろうか。朝起きてすぐ感動的なフレーズに出会って、お仕事で素敵な体験をして、移動時間で何かを閃いて、帰ると最高の友達が待ってたりするんだろうか。そうでもしないと、発信する量に見合った一日になってないんじゃないだろうか。

 あるいは芸能人の言葉には、なんでもない物がたくさんあるのかもしれない。「空がきれい」って言うだけで、俺達はそれをいろんな角度から眺めて、「この角度からだと深い発言」だと受け取ってるのかもしれない。

 

 そんな風な受け取り方って、なんだかその人に振り回されてるみたいだ。べつに批判的な意味合いじゃなくて、その瞬間、その人は世界の真ん中にいるんじゃないかって。人ってそれぞれに世界を持ってて、その中心はたぶんおそらく自分であるはずなんだけど、たまに、あれ?ってなる。いつの間にか自分が衛星みたいに回ってて、視界がぐるぐるして、よく見たら真ん中にその人がいる、みたいな。うまく言えないけど、そんな感じ。

 

 万有引力、とってもいい。誰でも自分が中心で、たまにそれが大きい人がいて、俺達みたいに引力が弱い人は、斜に構えながらも引っ張られてしまう。そういうすごく強い引力に、魅力って名前が付く。善悪もプラスもマイナスも全部ひっくるめたパワー。

 

 行きつけの書店に行って、タレント本の棚を見て、面白そうなタイトルを見つけてしまって、パラパラとめくりながら、また思う。ああ、万有引力