路地裏

あらゆるどうでもいいことを書きます。

オリジナリティ

 世の中、0は1にされつくされた。と、思う。

 ボカロっていう新たなジャンルが世に現れてから10年以上がたち、あのころ表現の場所の無かったクリエイター達はいまやPCから世界を感動させられるようになった。それどころか少年革命家が画面の向こうで戯言を叫び、それをかつての情報王である新聞がへりくだって特集するようにすらなった。あいつ、嫌いじゃないけど嫌いだ。画面越しに透けて見える暴走族の父親の顔が、最高に気持ちが悪い。

 

 話がそれた。今は居場所のなかったクリエイターがありとあらゆる才能を発露できる時代だ。そうやって羽ばたいていった人は数知れず、その結果として今あるものはすべて「1」になっているなと感じる。今のクリエイターの命題は、1をどうやって100にするかだ。そういう意味ではクリエイターさえも消費者であると思う。無くならない消耗品をいかに使い、新たな形として世に出すか。これももちろん発狂しそうなぐらい難しいことではあるんだけど。

 

 俺も同じ事やってるなと思う。使い古された言葉の錆を落として、新しい言い回しで吐き出す。自分で何かを生み出すということは、想像の範疇にない。まあむなしくなっちまう事のほうが多いけど、それでも俺は俺のオリジナルを作れていると思う。オリジナリティってつまり、その人の「色」ではなくて「模様」ではないかと思う。同じ色、同じ濃度でも、最終的に描いた模様が違えば、それはオリジナルだ。もちろんワンポイントだけを意図的に変えたような模様はパクリってやつだが、最終的によく似た模様になってしまう分には仕方がないと思う。だってそれがオリジナルだ。人を見て空気を読んで変えてしまうより、ずっとらしいと思う。

 

 「I Love You」を訳すのに、あそこまでのオリジナリティはいらんと思うが。

適量:過剰

 卑屈に振る舞う人が好きじゃない。

 そいつは俺なんかよりも頭がすごく良くて、まあ国語力とか語彙力は俺が上なんだけどそれ以外のほとんどが俺よりずっと上の能力を持ってて、対人関係は確かにヘタクソだけど俺ら友達はそいつを本当にすごいやつだと思っている。

 でもそいつはとても卑屈で、たいていの誉め言葉を跳ね返してしまう。俺らはまあ、多少のからかいもたまにあるけど、本気で思ったことしか言わない。というかお世辞が出来ない。そういう関係性なのだ。あと個人的にほぼそういう病気。

 

 でもそいつにはなんか届いていない感じがする。皮肉だとか嘘だとか、そんな風にねじ曲がって届いてる気がする。

 

 まあこいつだけじゃなくてほかにも人間関係アホなやつはいるんだけど、そういうやつ見るたびに、こんなことで能力が埋もれかねないのはかなり勿体ないと感じる。

 

 卑屈は正当な評価を捻じ曲げる。ねじ曲がっても届くように高く評価しても、それを地に落とす。さながらかめはめ波ならすべて無効化する天津飯のようである。

 

 もったいないじゃん。この身体でやる人生はこれ一回きりなんだから、正しい場所で楽しく生きるのがいいじゃん。というかお前はすごいやつなんだから、誇ってればいいじゃん。

 俺が今まで会った中で、単純な頭だけなら一番いい。そういうやつが卑屈に振る舞うと、いらねえ敵を作るし、味方が減る。俺らはいいけど、お前がつらい。それがよくない。友達になったやつは全員なるべく幸せになってもらわないとムカつくというヤバイ脳なので、お前にも幸せになってもらわねばならない。厄介だろ。

 

 

 俺の自信は過剰だ。最近きづいたけどナルシ気味かもしれないぐらいひどい。容姿がどうこうはどうでもいいが、得意意識のあるジャンルにおける自信の持ちようがえげつない。冒頭にあるだろ、国語力。あれが俺の自信。

 

 過剰に持て。恥はかかない。恥をかいたお前を、周りはそれほど見ていない。でもすごい時のお前は、みんなが見てる。

 

 自信を持つことですべてがうまく回るとか、そんなクソみたいな楽観論じゃない。ただお前は正しく評価されるべきだ。そのために何がいるか? バカみたいな自信だ。ひけらかす用の余所行きの自信じゃない。お前を守って、正しい場所に連れて行ってくれるための自信だ。

 

 お察しの通り誰かに向けた言葉だけど、まあ参考にしろ。はい、拍手!

(ここにタイトルを入力してください)

 なにもない。なにもない時間に、そうやって思う。暇なときを埋める何かとか、夢中になれる何かとか、夢の道筋とか。

 子供の頃の純粋な頃からずっとなかったような気がしてくる。なんにも。目の前になにかを置いておかないと、何もない。そのたびにこうやって、どうにか自分を理解して、落とし込んで、どこかに吐き出して、それがどこに行くのかも知らない。

 

 何がある? 何もない。俺が世界と繋がってるのは、友達といるときだけだ。

 友達といるときは、何も考えなくていい。目の前の「楽しい」を、そのまま受け取るだけ。心のまましゃべって、それが返ってくる。楽しいを無限大に増幅させられる。

 

 それで楽しみ切って、友達と別れたところで思うのだ。「俺になんで友達がいるんだろう」って。こんななにもない男に。

 こんな言い方はひどく良くないし、ドツボにはまってるだけのクソみたいな考えなわけなんだけど、でも考えてしまうものは仕方ない。

 引力がひどく弱くて、常にだれかに引っ張ってもらっている。意思のない存在に自分が思えてくる。存在価値とかいう、おそらくは他者に与えられるものを、自分で見つけ出そうとしている。

 

 「無敵の人」は、それを他者に与えられず、また自分でも見つけられなかった人のことではないかと思う。なにもないのだ。本質的には、誰もかれも。

 

 悩む。大いに悩む。死にたくなったりもする。死ぬわけにはいかない。その結果が今だ。「無敵の人」には、なりたくない。存在価値はなんだ? そんなのは誰かに委ねろ。

 

 なにもない時間に、何でもないことを考える。こんなふうに。

ねこ

 うちには猫が二匹いる。母親が拾ってきた元野良猫・ももと、一匹じゃさみしいかもと思ってもらってきた猫・くり。二匹とも女の子。人間の妹も含めて厄介な妹たちである。

 とはいえ猫は神にも勝る上級の存在であり、その可愛さは何と比べられるものでもない。とんでもないバカな行動も愛嬌に映るぐらい可愛い。cawaii。

 

 昔、うちには先代の猫がいた。名前はジジ。俺が0歳のときにもらわれて、兄貴が名付けた。ジジと俺は同い年で、0歳の俺はジジを叩いて引っかかれたらしい。その傷は中学頃まで残っていた。小学生のころは追いかけまわして猫パンチを食らったりしたし、網戸を破り脱走を図ったこともあった。

 

 ある日、ジジは調子が悪くなって病院に通うようになった。もしかしたら死ぬかもしれないと言われて、泣いてしまったのを覚えている。でもその時は手術かなんかが上手くいって、普通に帰ってきた。中学は平和に卒業した。

 高校1年の時、ジジはおじいちゃんになったなあと思った。まったく餌を完食することが無くなり、寝る時間が増えた。膝にのせてもあまり動こうとはしなかった。なんだか急にはかないものに見えて、大事にした。

 

 高校2年の夏、東京に遊びに行って帰ってきた次の日、ジジは家の隅っこでじっとしていた。抱き上げて家の真ん中のソファに置き、駅におきっぱの自転車を取りに行った。

 帰ってくると、ジジは息を詰まらせていた。時折「カッ」というような音を発するだけで、まったく生きているようには見えなかった。いくらなんでも察した。こいつはもうすぐ死んでしまう。帰ってきた妹にそのことを伝え、怖くなって自分の部屋に逃げた。しばらくして母親が帰ってきて、おそらくはそのタイミングでジジは息を引き取った。

 

 目を閉じさせて、身体の固くなっていくジジをなでながら、埋葬の日取りとかを決めて、当日についていった。

 最後のお別れは、言えなかった。口を開けば泣いてしまうので。

 

 それから1年経ってから、居間から猫の鳴き声がするようになった。それがもも。

 最初は、ジジの傷も癒えてないのになんでって思ったけど、ある日ネットにある記事を目にした。

 

「猫は楽しかったことしか覚えていない」

 

 救われた気がした。ジジは楽しい記憶だけを持って天国で過ごしているのだと思うと、やっとジジにお別れを言えるような気がした。

 ならば俺は、ももとくりにも楽しい記憶をいっぱいあげようと思った。うざいぐらいに撫でて、逃げだすぐらい抱き上げて、飽きるぐらい遊んでやろうと思った。こいつらもいつかは、たぶん俺より先に死んでしまう。その時にたくさんの楽しい事を覚えてるように。

 

 俺が死んだときは、棺桶に猫じゃらしを入れといてくれ。天国でまた遊ぶから。

唯一無二

 wowaka氏の訃報に触れてから、才能について考えることが増えた。

 彼は紛れもなく天才で、普通に生きていれば作品にすら巡り合えたかどうかも怪しいぐらいに雲の上の存在だった。ニコニコというコンテンツに突如現れ、電子の海を席捲した超常的な存在。彼の音楽は心を打ち鳴らした。感情を震わせた。

 

 インターネットの普及とともに世界各地で観測されるようになった彼ら天才は、やっぱり天才であるがゆえに苦悩していた。宝石のような曲を生み出して、引退していった人たちもいる。0から1を生み出すことの苦悩が、分からないまでも伝わってはきてる気がした。

 そんな中でもwowaka氏はいわゆるてっぺんの人で、0から1を生み出すどころか、それを100にしたり120にしたりできてしまう人だと思った。感動には上限が無い。彼の音楽は無限に人々に届いた。やがて自らの声でもそれを行うようになり、その輪は広がっていった。

 

 そんな人が亡くなったと聞いて、真っ先に思い出したのはsamfree氏の事だった。

 彼もまた観測された天才の一人で、ボーカロイドそのものに圧倒的な爪痕を残した偉大なるクリエイターだった。彼の音楽に強く影響を受けた。彼の真似は誰にも出来なかった。2015年に彼もまた、あまりにも早く天国に行ってしまった。

 

 彼らは才能があった。俺ら凡人が悔しがることすら出来ないほどに。でももしかしたら、それこそが早すぎる死の一因だったのかもしれない。

 才能は車で言えばエンジンだろう。誰よりも速く、力強く走り抜けるための心臓。アクセルを踏めば誰も届かない場所まで行けるような本物のエンジン。

 

 でも彼らは、ブレーキを踏むことを忘れてたんじゃないかと思う。いや、わかってても踏めなかったのか。止まらず人生を突き進み、突然逝ってしまった。

 

 才能は怪物だ。生命を食わせ宝を生み出す。唯一無二の音楽という表現は、命が削られて生み出されたものかもしれない。最後には怪物が、天国へと連れてってしまう。かのフレディ・マーキュリーもそうだった。

 

 彼らは唯一無二だ。誰にも真似できない。願わくば天国では、安らかに過ごしていてほしい。

明日死ぬなら

 明日死ぬとしたら?と、ありきたりなことをよく考える。明日のことだから考えやすいし、いまいちリアリティが無いからうんざりもしない。暇をつぶすにはなかなか悪くない思考だ。

 

 HERO先生の「堀さんと宮村くん」の話の一つのタイトルに「明日世界が終わる日の、今日。」っていうのがあって、そのタイトルから好きになって、でも世界が終わるのはどうにも想像つかなかったから自分が明日死ぬことを考えている。実際に死のうって時期は5年ぐらい前に終わった。あれ疲れる。

 これは別にネガティブな話じゃなくて人間いつ死ぬかわかんないよねって感じの話。いつかは死ぬけどいつかがいつかはわかんないから困るんだよなあ。人生がたとえば人生ゲームだとしても、「あがり」がどこかわかんないし、場所によっては「ゲームオーバー」でしかないから大変。クリア条件ないし。

 

 これが明日死ぬなら、いつも通りの日常を過ごして、たぶん泣いて、それで終わりだ。余命が1日なら考える暇も、やり残したことをやる時間もない。なにも考えず、死ぬだけ。

 たぶん、恐ろしく楽なのだ。毎日明日のことを考えるということが無くて、やりたいことをやる暇もなくて、思考すら停止できるほどに。

 

 それに比べて、今はどうだろう。予定を立てたり、仕事に憂鬱になったり、めんどくさい人間関係があったり、やりたいことがあふれてたり。

 人生のどこかの瞬間から「あがり」になるんだと思うけど、少なくとも今はまったくその時じゃないと思い知る。きっと明日は来るし、明後日も来る。ゲームオーバーは嫌だ。思考は止めるわけにはいかない。やり残したこと、やりたいこと、全部やってから死にたい。

 

 ああ、めんどくさい。明日も生きていく。

コミュニケーションのススメ

 人見知りが激しい。人見知りの中でもかなり特殊なのではないかと思うのであんまり言いたくはないというか、言ってもまったく頷いてもらえないのだけど。

 

 まず人間が好きだ。人間と話していて特に飽きることがない。中身のない会話も面白ければ歓迎だ。

 とはいえ人間は恐ろしいので、初対面でフランクにいけるほど勇気を持てない。笑みを最初から浮かべられない。声をかけて、次の言葉を見つけていない。

 昔教師から説教されてた時、目を見て聞いてたら「なんだその目は!」と言われたのがトラウマで、人の目をまともに見られない。怖くて怖くてたまらない。

 

 コミュニケーションが苦手なことの根本は、「嫌われたくない」ということなのかなあと思う。言葉は一瞬でナイフになるので、誰でもかれでも傷つけることが出来るし、その割に傷はまるで癒えそうにない。少し親に目つきが悪いと言われただけで、ぼろぼろと泣いてしまった。

 どうにも止まらない涙を拭いながら、思った。この人はなんで俺を簡単に傷つけるのだろう。

 

 

 今にして思えばそれは単純で、親にとってはそれは傷では無かったのだろう。俺は心に穴が開いたような気持ちだったが、親の心はそこではなかったということ。誰だって基準は自分だろう。心の所在が人によって違うなんてことは、ちょっと変な人じゃないと気付けやしない。気付けた俺は幸運なやつだ。

 

 それで思ったが、コミュニケーション下手にとってのコミュニケーションは傷つけあいになってしまっているのじゃないかと思う。分かってやってるならいいけど、たぶんお互いに相手の事を傷つける人だと思っていて、お互いに傷つけてる自覚がない。それじゃどっちも幸せになれずに、コミュニケーションが嫌になってしまう。人間は楽しいから、それは多分もったいない。人にとやかく口出すことはできないけど。

 

 大事なのは、自分の機嫌を自分で取ることと、心に絶対防衛線を張ること。

 親に言われて泣いたのは、親の言うことをまともに受け止めたからだ。心をむき出しにして人と接してしまった。いや、それはいいんだけど、心のいちばん柔らかいとこはちゃんと守っておかなきゃならない。だから今は悪口を言われてもへこまないようにしている。

 で、不機嫌にならないこと。いやなってもいいけど、それを相手に出すのはよくない。コミュニケーションのルール違反。対等な立場で、フラットに成立させるべき。許せないことを許す必要はないけど、相手を自分の感情でコントロールするのもよろしくない。

 

 人と話すのは楽しい。それはある意味都合のいいことしか受け取らないからで、相手に対して敬意を持ってるから。人間の怖さまでひっくるめてコミュニケーションだから、そこの勇気だけは欠かさない。初対面では無理だけど。

 

 友達との初対面を思い出すと、みんなが歩み寄ってくれてた気がする。ありがたいなあ。俺も歩み寄りたいんだけどね。

 でもそこの勇気が出なくても、握手を求められて応じられるぐらいにはコミュニケーションが上手くなってほしい。人間、楽しいよ。

 

 コミュニケーションに悩む誰かに、届きますように。